同協会は (中略) OSS 利用者が利用情報を共有する目的で設立された。
この記事が正しいとしたら *1、設立の目的自体が「高い志」とは無縁だね。 開発をどう進めていくかというのが二の次になっているのだから。 そんな団体に「高い志」なんて語って欲しくないよ。
広告条項が追加されるので GPL との関係がいろいろ議論されているみたいだけど、 そこまで問題かね?
XFree86 の新しいライセンスについて詳しく検討した訳じゃないけど、 同様に広告条項を持つ The Original BSD License についても FSF のページで
The flaw is not fatal; that is, it does not render the software non-free.
と fatal ではないと明記されている。「広告するときに面倒」以上の問題は ないのだから、そこまで気にしなければいいのに。
FSF は The BSD License Problemでいろいろ批判を書いているけれど、正直言って難癖つけてる *1としか思えないのよね。
たしかに The original BSD License の広告条項は「広告には全部の名前を 列挙しなければならない」という面倒くささはある。でも、これを問題視するのなら 今の GPL version 2 のバイナリ配布条項の面倒くささも問題視したほうが いいのでは?
対応するソース全部を添付しなければならないというのは非常に大きな制約なのよね。
3. You may copy and distribute the Program (or a work based on it, under Section 2) in object code or executable form under the terms of Sections 1 and 2 above provided that you also do one of the following: a) Accompany it with the complete corresponding machine-readable source code, which must be distributed under the terms of Sections 1 and 2 above on a medium customarily used for software interchange; or, b) Accompany it with a written offer, valid for at least three years, to give any third party, for a charge no more than your cost of physically performing source distribution, a complete machine-readable copy of the corresponding source code, to be distributed under the terms of Sections 1 and 2 above on a medium customarily used for software interchange; or, c) Accompany it with the information you received as to the offer to distribute corresponding source code. (This alternative is allowed only for noncommercial distribution and only if you received the program in object code or executable form with such an offer, in accord with Subsection b above.)
自分で作成したバイナリを配布する場合、ソースコードも持っているから上記 c) 項の適用はなく、必ず対応するソースコード全部を配布 (もしくは 3 年以上 実費のみで配布することを記した書面を添付) しなければならない。
例えば、 (2/6 追記: mhatta さんの指摘を受けて別な例に書き換えました)GNU Emacs で byte-compile された .elc ファイルを自分の WWW に置いて配布することを考えてみよう。一行パッチで直るような重大なセキュリティホールが見つかった場合に 対策をしたバイナリを配布することを考えてみよう。 GPL では同じ場所 (もしくは自分が管理する 別の場所) に GNU Emacs の全ソースコードを始めとする膨大な対応する全ソースコードを置くことが要求される。 FSF で配布している GNU Emacs のソースへのリンクを張るだけでは対応するパッチとバイナリだけを置いてソース自体は配布元へのリンクを張る、という のでは GPL 違反となってしまう。たかが数キロバイトのバイナリを 配布するために数十メガバイト以上の置場所を確保することが必要になることも 珍しくない。
GPL の文面を検討するとわかるけれど、大昔に主流だったテープでの配布を 考えて条文が作られていて、今みたいにインターネットのあちこちでソースコードの アーカイブが公開されていることを想定していないのよね。
バイナリ配布する人にこれだけ現実離れした面倒を要求するのは正しくて、 広告 (バイナリ配布する人よりずっと対象が限られる) で著作者の名前を 列挙することを要求するのは
But it does cause practical problems.
とするのはどこかバランス感覚がおかしいとしか思えない。
GPL の考え方は偉大だと思うし、個人的に共感もする。でも、 1991 年に作られた GPL version 2 がいまだ改訂されていないのは FSF の怠慢だろう。
the Original BSD license の広告条項が GPL に矛盾する理由として、 GPL の
You may not impose any further restrictions on the recipients' exercise of the rights granted herein.
という条項が挙げられているんだけど、ここの部分が気になる。
GPL で認められる「権利の行使」が何かというのを調べていくと、
Activities other than copying, distribution and modification are not covered by this License; they are outside its scope.
というのがみつかる。この直後に
The act of running the Program is not restricted,
というのもあるので
が GPL で認められた権利だということになる。広告はこの 4 つのどれとも 独立している *1から、「広告条項は GPL で認められた権利 (the rights granted herein) の行使を 制限してはいない」と考えること *も* 可能だろう。
以上の解釈が正しい *2かどうかはわからない。少なくとも FSF の解釈とは異なっているだろう。 GPL は条文がかなり複雑なのでいろいろな解釈が可能であり、その解釈の幅の中に こうしたものもあり得る、というくらいに受け取って欲しい。
GPL version 2 には
1. You may copy and distribute verbatim copies of the Program's source code as you receive it, in any medium, provided that you conspicuously and appropriately publish on each copy an appropriate copyright notice and disclaimer of warranty; keep intact all the notices that refer to this License and to the absence of any warranty; and give any other recipients of the Program a copy of this License along with the Program.
という条項がある。日本語訳で「適正な著作権表示と保証の放棄を明確、且つ 適正に付記する場合に限り、複製又は頒布することができます。」となっているが、 「適正な著作権表示」とは何かを考えだすと非常に困ってしまう。
現在、著作権では (日本やアメリカも含めて) ほとんどの国で無形式主義が 採用されているので「定められた著作権表記の方式」というのは存在しない。 XFree86 の新しいライセンスでドキュメントに記述することが要求される
This product includes software developed by The XFree86 Project, Inc (http://www.xfree86.org/) and its contributors
は「適正な著作権表記」の範疇に入りうるものなのか、そうでないのか。 簡単に調べた範囲では判断がつかなかった。
XFree86 のライブラリをリンクしたバイナリは当然ながら The XFree86 Project, Inc の著作物となる。ドキュメント等で The XFree86 Project, Inc の名前を全く 出さないとしたら、それはそれで「適正な著作権表記」を行っていないと 思われる。ライブラリは多くの人や団体の集合著作物なので、バイナリ配布で どう著作権表記をすべきなのか、非常に悩ましい。
NHK で昨日やっていた クローズアップ現代: ヨットはなぜ沈んだのかという去年 9 月に琵琶湖で 6 名が死亡, 1 名がいまだに行方不明となった事故の 検証番組を見た。 強風下のセーリングでタック (方向転換のこと) を行う際に乗員の移動 *1を行わなかったのか。全員がライフジャケットを着用していなかったことといい、 ヨットの基本を守れなかったことが事故につながったというのがよくわかった。
結局問題の人物が逮捕された。これまでいろいろ追ってきたが、 今回の事件は悪質なので逮捕されても仕方がないという気がする。
1/29 の日記で取り上げた匿名掲示板での情報漏洩事件 の数日後に逮捕ということなので、情報漏洩が逮捕のきっかけになったのでは と考えるのは憶測に過ぎるだろうか?
を考えてみる。 ASK ACCSが 2/4 付の声明で
確かに、 CGI の脆弱性を指摘することについては、セキュアなネットワーク社会を 構築するために有用な側面もあると考えます。
と明言していることからわかるように、「脆弱性の指摘」だけであれば違法性を 云々されることはなかったと私は考える。やはり
の問題が大きいし、
も心証を著しく悪くしていると考えられる。
逃亡の恐れがなく罪証隠滅のおそれが明らかにない場合は逮捕できない (刑事訴訟規則 143 条の 3)。問題の人物も主催者側も「資料流出の恐れはない」 としていたにも関わらず実際に流出が起こったことは、何らかの口裏あわせが 行われたと疑われて「罪証隠滅の恐れあり」の判断材料にとなった 可能性がある。
インタビューでもっと慎重な応対が行われ、かつ主催者など関係者が適切に行動 (イベント当日に資料を回収するなど) していれば、逮捕までは至らず 書類送検で済んだかもしれない。
毎日の記事がよくまとまっているので引用する。
しかし、法律に詳しい関係者は「動機が善意であっても、意図的にぜい弱性を ついて、不正アクセスをした場合は不正アクセス禁止法に違反する」と指摘する。 動機が善意かどうかは、情状酌量になっても犯罪の構成要因には関係ないと解説する。 逆に、アドレスを偶然いじっていて、アクセスした場合は、不正アクセスだが 「意図的」でない限り、同法に抵触しないとみられる。
(中略)
善意のぜい弱性の指摘が萎縮するのを問題と見るネット関係者もいる。 こうしたなか、経済産業省は情報処理推進機構 (IPA) に委託し、ぜい弱性対策の 研究を始めた。ぜい弱性を発見したらどこに届け出て、不正アクセス防止法に 抵触せず、ぜい弱性の指摘をするにはどうしたよいのかなどについて基準づくりを 行うものだ。年度内にも結論が出ることが期待される。
今回のケースが 不正アクセス防止法第三条で定義されている「不正アクセス」にどう該当するのかは不明だが、 法の解釈としてはその通りだろう。 とりあえずは経済産業省と IPA の動きに注目しておく必要がありそうだ。
試しにやってみると
それぞれ「年 1 回の実用と神風特攻隊員の潜入のために最適化された 機械的かつ従順な専門家」「戦闘と科学的破壊のために設計された 機能的ロボット実体」「ネットワーク化された電子的地球上戦闘とサボタージュ装置」 だろうか (笑)。
左足を変に捻ってしまったようでかなり痛い。
mhatta さんの指摘について。 確かに GPL を厳密に解釈すれば mhatta さん (や FSF など多く) のように 「GPL に矛盾する」と考えられる。それは事実だろう。
では、同じように modified BSD style license を厳密に解釈するとどうなるのか。 バイナリ配布の場合で考えてみる。 FreeBSD では
2. Redistributions in binary form must reproduce the above copyright notice, this list of conditions and the following disclaimer in the documentation and/or other materials provided with the distribution. 2. バイナリ形式で再配布する場合、上記著作権表示、本条件書および 下記責任限定規定を配布物とおもに提供される文書 および/または 他の資料に必ず含めてください。
となっている。「following (下記)」と限定されていることに注意して欲しい。 「下記責任限定規定」は具体的には以下の通り。 GPL version 2 にある 無保証条項の文面とは明らかに異なる。
THIS SOFTWARE IS PROVIDED BY AUTHOR AND CONTRIBUTORS ``AS IS'' AND ANY EXPRESS OR IMPLIED WARRANTIES, INCLUDING, BUT NOT LIMITED TO, THE IMPLIED WARRANTIES OF MERCHANTABILITY AND FITNESS FOR A PARTICULAR PURPOSE ARE DISCLAIMED. IN NO EVENT SHALL AUTHOR OR CONTRIBUTORS BE LIABLE FOR ANY DIRECT, INDIRECT, INCIDENTAL, SPECIAL, EXEMPLARY, OR CONSEQUENTIAL DAMAGES (INCLUDING, BUT NOT LIMITED TO, PROCUREMENT OF SUBSTITUTE GOODS OR SERVICES; LOSS OF USE, DATA, OR PROFITS; OR BUSINESS INTERRUPTION) HOWEVER CAUSED AND ON ANY THEORY OF LIABILITY, WHETHER IN CONTRACT, STRICT LIABILITY, OR TORT (INCLUDING NEGLIGENCE OR OTHERWISE) ARISING IN ANY WAY OUT OF THE USE OF THIS SOFTWARE, EVEN IF ADVISED OF THE POSSIBILITY OF SUCH DAMAGE.
修正 BSD ライセンスものとリンクした場合、 GPL の条件に加えて
ことが求められる。 FSF の見解では「修正 BSD ライセンスは GPL コンパチブル」 らしいから、以上の制限は GPL version 2 でいう「any further restrictions on the recipients' exercise of the rights granted herein」 には該当しないのだろう。
一方、ドキュメントに XFree86 新ライセンスの「This product includes software developed by The XFree86 Project, Inc (http://www.xfree86.org/) and its contributors」という文を入れることは GPL 違反ということらしい。 ドキュメントに特定の文章を含めなければ再配布できないという点では同じ なのだが、どこに違いがあるのだろうか?
条文の解釈にはある程度の幅があるものだが、修正 BSD ライセンスについては 緩めに、 XFree86 についてはきつめに解釈している気がしてならない。
全く同意。
個人的には彼のように外部の立場から「脆弱性を調査する」というのは必要だとは 考えるんだけど、法律的に考えると調査自体が黒に近いグレーゾーンにあるとしか 思えないのよね。「調査する権利」という主張をする人を見かけるんだけど、 そんな権利はどこにもない。逆に、調査によって相手に損害を与えてしまったら 損害賠償しなければならないだろうし、今回のように不正アクセス禁止法に ひっかかることもあるだろう。
で、やはり ここで引用した毎日の記事にあるような「基準づくり」が重要になってくる。 「そんな調査をしただけで逮捕なのか」などという反発 (?) をするよりも、 法律的にグレーゾーンにある調査行為をいかに「白」にしていくかを 模索していくべきじゃないかな。
相変わらず調子が悪い。
amazon.co.jp にて。
外部の人間が書いたドキュメンタリーとしては良く書けているとは思う。
とある場所で書かれていた内容に対するコメント。個別の文章への参照は 避けるとのことなので、こちらも参照を避けておく。
「倫理上問題があること」と「刑事罰を受けるべきであること」が区別できていない 方が多すぎる
個人的にはそのあたりは区別しているつもりだ。
当然のことですが彼は被疑者として「無罪の推定」を受ける立場ですので、 それを忘れないようにしたいものです。
これは当然の話。たとえオウム事件の松本智津夫被告でも判決確定までは 無罪の推定が行われるのと同様に、彼の場合もそういう配慮は行わなければならない。
上記コメントの対象となった方がどうこうという話ではなく、あくまで一般論だが、 「無罪の推定」という言葉を持ち出す人というのは、なぜか胡散臭く感じてしまう。 無罪の推定というのはあらゆる被疑者に対して等しく与えられる権利なのに、 特定の個人を擁護するためだけに「無罪の推定」という概念を持ち出す人が あまりにも多すぎる。
例えば、外務省汚職で裁判中の鈴木宗男被告も無罪を主張しているから「無罪の推定」 を受ける立場の人間。しかし、鈴木被告の衆議院での辞職勧告決議を当然とする人が 大多数だった。つまり、「無罪の推定の原則」は所詮その程度のもの (有罪と 決めつけて辞職勧告をしても何の問題もない) と考えるべきだろう。
以前からあった右肩の小さな瘤が数日前から化膿して大きく腫れてきたので、 近くの外科に行って切開&摘出してもらった。やはり粉瘤とのこと。
今日も病院へ。 化膿が多少収まってきたのか、包帯の外まで汚れるということはなくなった。 それでもかなりの状態らしい (^^;。
皮膚近くにできる良性腫瘍の一種。何らかの原因で皮膚の一部が皮膚の下に 袋状に入り込んでできる。皮膚の表面からとれる皮脂や垢が外に出ずに 袋の中に貯まっていくため次第に大きくなっていく。
しばらく前から背中に瘤があるのに気付いていて、たぶん粉瘤だろうと 判断していた。少し暇ができたら適当な病院で摘出してもらおうと 思っていたのだけど、その前に化膿して炎症性粉瘤になってしまった。
まだ化膿が止まっていないので、抗生物質を飲んでいる。また、粉瘤の中には ガーゼが詰めてあって、毎日病院通いしてガーゼの交換と消毒をしてもらっている。 粉瘤自体がかなり大きくなっていた *1のでなかなか大変。
炎症が止まったら、皮膚の下に入り込んだ袋全体を摘出することになるのだろう。
塩崎さんのところから。
この「オープンソース」を巡る話で気持悪いのは、
既に定義がある言葉の「俺定義」は失礼
という考え方なんだよね。
言葉なんて特定の誰かが「定義」するものではない。「オープンソース」の商標を 登録することによって何らかのコントロールをしようという動きもあったようだけど、 商標を登録したからといって「定義」する権利ができる訳でもない。 一例を挙げれば、多くの人が「UNIX の商標の権利者が主張してきた定義」とは 異なる意味で「UNIX」という言葉を日々使っているし、世間一般に目を向ければ 「宅急便 (ヤマト運輸)」「ナイロン (デュポン)」「デジカメ (三洋電機)」 「着メロ (鷹山)」のように「定義」と世間一般での意味が異なるもの (括弧内は登録商標の権利を持っている会社名) なんて山のようにある。
「言葉の定義は誰かが決めるものではない」 「あるグループ内で通用する定義を決めたとしても、第三者に強要はできない」 *1というのはちょっと考えればすぐわかるはず。それなのに「オープンソース」な 人々は「定義を決められる」という前提で話を進めてしまうのよね。
「オープンソース」の問題点は Richard Stallman の上記文書でほぼ 指摘し尽くされていると思う。
ところで、 Stallman の文書は yomoyomo 氏による日本語訳 「フリーソフトウェア」が「オープンソース」より好ましい理由があるのだけど、これを見ると日本語訳 (原文のちょっと古いバージョンが ベースになっている) の最後の一節全部がいまの英語版では削除されている ようだ。
フリーソフトウェア運動とオープンソース運動は、フリーソフトウェア・ コミュニティ内部の二つの政治的陣営のようである。
我々はオープンソース運動を敵視してはいないが、彼らと一まとめにはされたくない。
といったかなり刺激的な内容の部分が、なぜ最新の英語版から消されたのか。 想像してみるとちょっと楽しい (w。
Matz にっきのツッコミ部分に
「本来独占できないはずの open source という言葉の定義を... 独占しようとしている」という意見への反論は以前に何度も何度も書いたので 省略します。いくら書いても納得できない人は納得できないでしょうし。
という記述があるけれど、こういう姿勢が「オープンソース運動」を いかがわしく見せる大きな原因になっている気がする。何か「自分だけが正しい」 という独善的なものが感じられるのよね。
私が知る限り、かなり多くの人 (紹介した文書から判断する限り Richard Stallman もその一人) が「オープンソースという言葉を定義できるか」という点に疑念を 表明している。前述したように「特定の誰かが定義」なんて明らかに不可能だし、 世の中での「オープンソース」の使われ方を見ても出来ていない。
自分が正しいと信じる定義を (Richard Stallman が「Free Software」で 行っているように) 広めるというのは意義があることだと思う。でも、 自分の定義を正しいと信じて他を「失礼」と言い切ってしまうのはどう考えても おかしい。「オープンソースは一つの宗教」なのかなと思えてくる。
(2/24 追記: こちら参照) いわゆる「オープンソースの定義」が発表されるより前から「オープンソース」という言葉が使われていたということは、使っていた人がそれぞれ自分なりに「オープンソース」という言葉を定義していたということ。『既に定義がある言葉の「俺定義」は失礼』というのが仮に真だとしたら、失礼なのは後から定義をした「オープンソースの定義」の存在そのものだよね (w。
念のため書いておくと、私が考える「オープンソース」と「オープンソースの定義」 には大きな違いはない。でも、私は「オープンソース」という言葉が 「オープンソースの定義」にあるような文章で明確な境界線をもって 定義されるものだとは考えていない。
ところで、
フリーソフトウェアは主観的、オープンソースは客観的
などという表現がなぜ出てくるのか、私は不思議でならない。「オープンソース」 という考え方を広めたいのだろうけれど、「フリーソフトウェア」という考え方を 故意におとしめている *2ように思えてならないのだ。
今日も通院。ほぼ毎日のように病院に時間をとられるのは苦痛だ。
Matz にっきから。
「定義に従って使ったほうが良い」と薦めることはできる。
「薦める」だけなら問題視しません。前にもちょっと書きましたが、 Richard Stallman や FSF の人たちが Free Software という言葉について 行っているように、「良いと思われる定義」を広めようと運動していくことなら 理解できます。
まつもとさんは
既に定義がある言葉の「俺定義」は失礼
と書いています。この表現では「OSD 定義によるオープンソース」だけが正しくて 他の定義を使うことは「失礼」と受け取れるのです。「薦める」という レベルの話ではなく、 OSD 定義以外を「失礼な存在」として一方的に弾劾する 立場に見えます。私の日記の昨日分の記述は、まつもとさんが (まつもとさん 自身が意識されているのかどうかは知りませんが) そうした立場にいると理解 した上での発言と考えてください。
少なくとも現時点では、世間で使われている「オープンソース」という言葉の意味が OSD が定義しているものと一致しているとは到底思えません *1。そういう現状でなぜ「俺定義は失礼」とまで断言できるのか。 なぜ「オープンソース == OSD の定義」という前提で話ができるのか、 非常に不思議です。
こちらの件。私自身は OSD 以前に聞いたような記憶があるのだが、 今となっては明確なポインタを示すことなどできないし、世間の多くの人に とっては「オープンソース」を知ったのは OSD 制定よりも後だろうから 時期に関する記述は撤回する。その他の部分の論旨は変わりない。
なお、私自身は「俺定義」は「失礼」だとは思っていない *2ので念のため。
ついでなので、某所で聞いてみた。
Q: 「OSD によるオープンソースの定義」を知ったのはいつ頃ですか?
これも mhatta さんの日記から。
OSD のどのへんが具体的に自分にとって都合が悪いのかはっきりさせてくださった ほうが、有益な理論になると私は思う。
OSD がどうあるべきかという点については私は興味はない。正直なところ 「勝手にやってくださって結構」という感じだろうか。
世間一般で言われている「オープンソース」の意味と「OSD 定義による オープンソース」とは同じものではなくなってしまっているので、
ということは強く希望したい。
今日も病院へ。相変わらずガーゼ 1 枚を傷口の中に入れる状態。 だいぶ時間がかかりそう。
私や私の周囲では、なぜか「オープンソース」という言葉が嫌いな人が多い 気がする。特に必要 *1がなければ自分ではオープンソースという言葉を使わないし、自分たちが 関わっているものを「オープンソース」とも呼ばない。
それにはいろいろな理由があるみたいだけれど、
といった意見 *2を聞く。やはり「定義」の部分が一つの大きな問題なのだろう。
「オープンソース」という言葉が既に OSD の定義を離れて使われている以上、 いまさら定義が「正しい」「間違い」という概念を持ち出してもしょうがないし、 今の使われ方からすると「OSD 準拠 == オープンソース」という 考えのほうが間違いとも言えるくらいだろう。 Matz にっきにある
「OSD 準拠でないオープンソースなぞないっ」という形ですがね。
という考え方は極論であり、明らかな間違いと断定していいだろう。
まつもとさんの意見が「オープンソース」な人たちの中でも極論に過ぎることは、 オープンソースの定義に付属する「準拠について」という文書でも判断できる。
私たちは「オープンソース」という用語を OSD に準拠しているという意味で 使うことを推奨していますが、総称的な用語としての「オープンソース」には 何の保証もありません。
要するに「総称的な用語としてのオープンソース」と「OSD 準拠」とは違う ということだよね。
同じく Matz にっき から。
世間一般とおっしゃるが、実際の世間一般は「オープンソース」なんて 知りませんって。
何と言うか、あまり意味がない反論だと思う。「世間」という定義が曖昧な言葉を 使ったのは良くなかったとは思うけれど、今回の件では情報分野等に全く 興味がない人は (暗黙のうちに) 「世間」の対象外になっている。
今や「一般人向け」メディア *3や政府・官公庁関係でも「オープンソース」がかなり頻繁に取り上げられる 時代。「世間」とは、そういう中で「オープンソース」という表現に 目を留めたことがある人、くらいの意味にとって欲しい。
今までコメントを避けてきた OSD ( 和訳) そのものについて。
OSD そのものを検討してみるとお粗末としか言いようがない。 このような代物を「オープンソースの定義」として推奨するのは 止めたほうがいいのではないだろうか。
まず、過去 6 年間 *1に 9 回と頻繁に改訂されているのが最大の問題。単純な変更だけならともかく、 version 1.9 で「10. License Must Be Technology-Neutral (ライセンスは 技術中立的でなければならない)」という項目が加えられたように 意味上の変更まで行われている。
これだけ頻繁 (平均すると 8 ヶ月に 1 回という計算になる) に変更が あると、雑誌記事で「OSD はこういう意味です」と紹介するのを躊躇してしまう *2し、 (雑誌に比べてライフサイクルが長い) 単行本では絶対に書きたくない。 OSD について責任持って説明するには「 http://www.opensource.org/ で最新の定義を参照してください」としか書きようがない。
意味上の変更があるというのはかなり深刻な問題で、「このライセンスは OSD に 準拠していま (す|せん)」という説明がある日突然嘘になってしまう危険性 *3がある、ということになる。企業や官公庁などが調達の際に 「オープンソース」を条件にする場合には、 OSD の具体的なバージョンを 指定するか、 OSD とは別の独自の基準を作る必要がでてくるだろう。
これだけ変更されているにも関わらず、過去のバージョンの正確な文章を すぐに検証することができないというのも大きな問題だ。 OSD のページには OSD change log というのがあるけれど、過去の半数のバージョンについては リンクが存在しない。私が簡単に調べた限りでは、それらのバージョンの文章を 見つけることができなかった。
さらに、リリース日が OSD の各バージョンの文章に明記されていないというのも 問題だろう。「あなたが書いた OSD の説明は間違いではないか」 「あのライセンスが OSD 準拠という説明は嘘ではないか」という指摘を 受けたときに「執筆時点では間違いではなかった」と説明するのが非常に難しく なってしまう。 (19:40 追記) ある時点でどの定義が有効だったのか 現状では全くわからないのだ。
今日の文章は OSD version 1.9 の記述を参照して書いている。近い将来 (早ければ数ヵ月後 ?)に OSD の文章が改訂されて私の指摘の一部が時代遅れになる 可能性があることをお断りしておく。
個々のバージョンの OSD の文章は「客観的」かもしれない。 しかし、全体としての OSD をみると、 OSI な人々の 「オープンソースとはどうあるべきか」という主観によって頻繁に改訂されるもの、 と考えたほうがいいだろうね。
をたくましくしてみる。
例えば、 version 1.9 で「10. License Must Be Technology-Neutral (ライセンスは 技術中立的でなければならない)」という項目が加えられたのは何故なのだろうか。 version 1.8 では OSD 準拠な ある種のライセンスを「OSD 準拠ではない」 ということにするために改訂する必要があったのだろうね。
これからも「OSI の人々が OSD 準拠にはしたくないライセンス」が登場する度に OSD は改訂し続けられるのだろう。
mhatta さんといくつかのやりとりをしていて、議論が噛み合わない理由が 少しわかったような気がする。
まずは、私の主張をまとめておこう。
付け加えれば、「オープンソースという言葉が OSD の発表以前から使われていた から OSD の定義の正当性自体に疑問がある」という意味の主張も行ったが、 この部分は明確な証拠を示せなかったので撤回 *1している。
はっきり言ってまったく噛み合わない。
「OSD 準拠でないオープンソースなぞないっ」という形ですがね。
という主張をされていることから、 OSD 準拠以外の意味での「オープンソース」 が広く使われているという現実からかけ離れた独自の認識をされているものと 想像する。
話が噛み合わなかった原因が多少わかった気がする。
どうやら、 mhatta さんは 私の日記の 2/23 分 4 節目の削除した部分の記述をまず目にとめ、私が「OSD の定義には 歴史的にも正当性がない」というところから主張を始めたと勘違いされたようだ。
実際には、削除した当該個所は 2/23 分の日記のうち 後になってから (最初の節が 18:20 頃, 削除した部分は翌 2/24 9:30 頃) 追加した部分であり、私の主張の中では比較的末節部分 のつもりだった。だからこそ指摘を受けてすぐに削除した。
私の当初の主張は
というつもりだった。議論の前提となる「既に OSD 以外の意味で広く使われている」 「言葉の定義は実際にどう使われているかで決めるものだ」という部分は 当然と考えたので明記せずにきた。そのために主張が不明確となったのだろう。 誤解の原因は私の記述にもあるのでお詫びしたい。
今回の議論が噛み合わない一つの大きな原因は、この「言葉の定義は実際に どう使われているかで決めるものだ」という認識 *2の有無にある気がしている。
話が噛み合わない理由をもう一つ想像してみる。
非常に乱暴なまとめ方だが mhatta さんに近い発言をしている方は Linux ユーザ、それも Debian 関係者が多いように思える。これは偶然だろうか?
これらの人々は Debian の DFSG から始まる OSD 制定の議論を比較的初期から 知っている等の理由で「オープンソース == OSD 準拠」という意識が 強いのではないだろうか。
一方、 Netscape がオープンソースでコードをリリースするとした発表あたりから「オープンソース」が有名になり頻繁に使われるようになったのだが、 これよりも後に OSD を知った人は、「オープンソース == OSD 準拠」と考えない 傾向があるのかもしれない。 OSD を知るのが遅れれば遅れるほど そうした傾向が強くなりそうである。
私が OSD の存在を確実に意識したのは opensource.gr.jp 立ち上げ後、つまり 2000 年初めより後だったように記憶している。時期的にはかなり遅い気がする。
Matz 日記の中で「世間一般のオープンソースは OSD 準拠」という主張が google で「オープンソース」「定義」を検索した結果を例に出して なされている。
これに対して、世間一般で OSD 以外の意味で「オープンソース」が広く 使われていることを同じ google の検索結果を通して示してみたい。
インターネット上で検索できる用語辞典を google で「用語辞典」 「オープンソース」をキーにして検索してみる。
ソフトウェアの設計図にあたるソースコードを、インターネットなどを通じて無償で 公開し、誰でもそのソフトウェアの改良、再配布が行えるようにすること。
(中略)
Netscape Communicator のように、通常の商用ソフトウェアとして開発されながら、 途中からソースコードが公開され、オープンソース化したソフトウェアもある。
OSD に関する説明は一切ない。 Netscape Communicator という明らかに OSD に 準拠していないソフトウェア (mozilla として公開された Netscape Communicator の一部なら OSD 準拠かもしれないが) も「オープンソース」として扱っている。
現在オープンソースと呼ばれているものは Linux の普及を受けて明確に規定された 定義に基づくもので
という説明はあるものの、 OSD や opensource.org そのものに関する言及はない。
前述の e-Words とほぼ同内容。
本来の意味の辞典ではないので省略。ここでも OSD に関する言及はない。
OSD および opensource.org に言及し、 OSD に沿った説明を行っている。
前述した IT 用語辞典 e-Words に非常によく似ている。 OSD や opensource.org についての言及が全くなく、 Netscape Communicator を オープンソースとするなど明らかに OSD とは別の意味で説明している。
プログラムのソース・コード (中略) を無償で公開・配布すること。
OSD や opensource.org に関する言及はない。定義自体も OSD とは異なる。
ざっと調べただけでも OSD とは別の意味で「オープンソース」が広く使われている ことがわかる。 OSD と opensource.org について言及して OSD 準拠の意味で きちんと説明しているのは @nifty: デジタル用語辞典だけであった。 これらの辞書は「オープンソースって何?」と疑問を持った人が 参照するだろうから、「OSD とは別の意味のオープンソース」がどんどん 拡大再生産されていると判断できる。
某匿名掲示板で指摘があったので念のため書いておくが、 上記の各辞典で e-Words とほぼ同内容のものは出典が同じである。 出典が同じとはいえ複数の場所で採用されているのだから、 その説明がかなり普及していることの証拠になると考える。
今回は「google で調べた時」にどう出てくるかを調べたので、 (出典が同じことを承知の上で) 検索結果を順番に紹介した。
nakano さんの日記から。
「オープンソース運動」を眺めていて感じた胡散臭ささに起因
私が見聞きした範囲で「なぜ胡散臭く感じるのか」というのをまとめてみる。
昨日書いたように、現実問題として OSD 準拠以外の意味で「オープンソース」という言葉が 広く使われている現状を無視したいように思える。そういう現実があるからこそ 「OSD 準拠の意味でのオープンソース」と「一般で言われているオープンソース」 をきちんと区別して議論しなければならないのに、そこが理解できない。 意図的に誤解の余地が発生する議論をしているように見えて非常に胡散臭い。 この点は 塩崎さんも指摘している。
Debian な人が DSFG を制定して自分たちが使うのなら理解できる。 しかし、 OSD というものを制定してどういう目的で使いたいのかよくわからない。
(他の人や団体等が使えるような) きちんとした定義を作って普及させようと しているのならまだ理解できる。しかし、実際の OSD は他の人や団体が 責任をもって使えるような「定義」にはほど遠い存在としかいいようがない。
私が既に指摘したように平均 8 ヶ月に 1 回と頻繁に定義を改訂しているし、その中には 意味上の改訂も含まれている。他の人や団体に使ってもらう基準にしたいなら、 5 年か 10 年くらい通用するような規定をきっちり決めなければだめだろう。 頻繁に改訂しなければならないようないい加減な定義を押し通そうとするのは 非常に胡散臭い。
「オープンソース運動」をしている人は
のどれに該当するのだろうか。私が知る限り、 4. はいないように思えるのだが。
nakano さんの日記にある
ことによって clear できるから。
- 改版履歴をつける
- 改版の理由をつける。できれば議論を公開する。
というのは私の指摘に関する限り間違い *1。 頻繁に改訂していること自体が問題。まして 意味が変わる改訂を行っていることは論外。
「オープンソース運動」な人は「オープンソースという言葉の意味」として OSD を使って欲しいんでしょ? ならば OSD を辞書に掲載する「オープンソースの意味」として使える状態、 すなわち 5 年か 10 年くらいの間きちんと使い続けられるような定義にする のがまず最初に行うべきことだろう。
書きたかったことはほぼ全部書いたし、そろそろ終わり時かな。
いずれ最新版に追従します。
最新版で削られたのは内容的に面白い (笑) ところなので、現在のバージョンも 何らかの形で残しておけないでしょうかね。各時点の原文とあわせて公開すると なおいい気がします。